青く、あるがままに進む
神学校で2年生に上がりました。
成績もそれなりに良く進級できて(ほぼA評価)、子供も小学校に入り順調!
のはずが、日本国民のご多分に漏れず5月病になる。
しばらく夜眠れなくて、寝ても途中で目が覚めたりノイローゼ気味に。
最初は気温の変化のせいか?年のせいなのか!?と思っていたが、結局4月末からしばらく不調。
このままじゃヤバいと思ってたら日曜の礼拝に行った辺りからよく眠れるようになる。
今日の朝気づいたことは、青くていいってこと。
ずっと気負ってたようで。
成績も出て進級して、子供も小学校に入学したし、しっかりしないと、もっと上にならないと、より良くあらないとみたいなプレッシャーを感じてたのかもしれません。
実際この年で神学校に入るのはいろんなプレッシャー、課題は承知の上で来ています。でも、それ以外の「喜びのプレッシャー」と言えるようなものでした。
人間、意外と困難な時より好調な時に落とし穴にはまるのかもしれません。
スティーブ・ジョブズは大学卒業演説で「Stay hungry,Stay foolish」と名言を残しましたが、それが多くの人々に響いたのは、一般の人は「I'm full ,I'm smart enough」だからです。
もはや自分はいっぱいいっぱいだから、これ以上は結構。
しかしそれは自らの広さを自ら狭くしています。
人間が呼吸をして生きているのが自然なように、あるものを取り入れ、あるものを出していくのが人間の自然の姿です。
自ら呼吸を止めたら、やがて窒息してしまうのではないか。
可能性は神にあり、行き詰まりは自らが招く。
完璧じゃなくても、ふさわしくなくてもいい、そのままの自分で、愚かな自分でそのまま進みます。
「人が全世界を手に入れても、自分の命を損なうなら、何の得があろうか。人はどんな代価を払って、その命を買い戻すことができようか」マルコによる福音書
今のあるがままの自分が自分の大切な命で、もし偽りの自分で欲しかった全てのものを手に入れたとしても、それであるがままの自分を捨てなくてはいけないなら、自分はあるがままの自分の方を選びます。
そのままぶつかっていきます。偽りの自分でごまかすよりも。
春はあけぼの、枕草子

春はあけぼの。
春眠暁を覚えず。
春は感じる季節。
こちらも新緑豊か、空の青さは広く深い。
子供は小学校に通い始めました。
途中まで一緒に行くと、改めて春を感じます。
そんな春には、新しいことを始めたくなる。
そうだ、新しい季節に古典を読もう。
温故知新。
枕草子。
平安時代を代表する随筆。
鋭く繊細な感性は、今もなおこの春のように心に鮮明に印象を与える。
「かわいらしいもの。
瓜に描いた、子どもの顔。
二つ三つくらいの子供が、急いでハイハイして来る道にほんの小さな塵があるのを見つけて、とても愛らしい指でつまんで大人たちに見せる仕草も、なんてかわらいらしいの。
とにかく小さいものは何もかもかわいらしい。」
簡素な文の佇まいに、普段理詰めで読む神学とは違う感性を見る。
根っこのところで、日本人が美しいと思うものは、同じ部分があるのかもしれない。
何を大切にしているかが分かれば、その人に近づくことができる。
とにかく読む本はたくさんあります。
3年間だけではとても足りませんが、3年間という時間と猶予を与えられているのは大きな感謝です。
限られた時間の中で、何を読み、学び、感じるか。
優先順位を明確にせねば。
りっぱすぎる決心は、きっと三日坊主になるから byドラえもん
読書のための大事な話。
学校で指定された本、あるいは興味を持って読んでみようと思った本が、絶版していることにも多々出くわします。
そうすると新品ではなく中古、古書を探し求めることになります。
今の世の中は本当に便利になって、直接古本屋に行かなくとも、ネット書店で在庫を検索できます。どれだけの時間がそれによって節約されるでしょう。直接の店舗に行く時間、交通費…それになかったとしたら別の店舗へ向かわなくてはならない。
しかし古本は古本ですから人の手に渡ったもの。中には経年劣化が見られるものや状態に難ありの本もないわけではありません。
そして、その中にはその本を持っていた方の書き込みが見られることもままあります。
書き込みは読んだ証で、私はこう言うのを読むのが好きで、本を読むときにその人の価値観とも対話している気持ちになって、興味深く読んだりします。大抵自分の価値観とは全く違うので、共感するというよりどういう読み方をしているか、どのようにこの本を読もうとしているかに注目します。
ただ、そんな書き込みの入った本を多々巡る中で、少し悲しい法則も見出しました。
それは、表題の通り「立派に読もうとした本は、途中で読み進められなくなってしまう」ことが多いということです。
もしくは、気合の入った書き込みは、それだけその本が難解、決して容易ではないことを表しているのかもしれません。
本の中で、熱心な書き込みを見つけ出すも、序盤で途絶えてしまったケースが多いのです。
最近で言うとバーバラ・ミントの「考える技術・書く技術」で顕著だったのですが、この本を以前持っていた方は、最初の方は傍線が引いてあったり、思いついたことを書き留めていたようですが、50ページもするとそこから何も書き込まれていないのです。
他の本でも、序盤の50ページから100ページくらいは熱心な書き込みが見られるものの、その後は空白というケースが多々ありました。
しかし、大抵の本はハイライトは中盤から最後にかけてであり、序盤にピークを持ってくるのはもったいない。
なぜ、こんなことになっているのかと思いを巡らすと、
りっぱすぎる決心は、きっと三日坊主になるから
に行きついたのです。
読書一般に見られると思いますが、立派な決心を持って本を読む方が多いのだと思います。
ですが、それは途中で途絶えてしまう。
それはなぜか。
読書は一方通行の修行ではなく、著者との対話だからだと思います。
本は、「私の目的」のために書かれたケースはなかなかなく、著者は「あるテーマ」に沿って本を書いています。それゆえ、読書というのは肩肘張って気合を入れてやるというより、もっとリラックスして、人とお茶しながら雑談するような気持ちでやるくらいがちょうどいいのではないかと思います(ちなみに今ソファに横になって布団かけて書いてます)。
自慢ではありませんが、私はその過去の本の所持者が挫折したかもしれない本を多々読破してきました。しかしその読書法は、その立派な決心を持った読書家から見れば眉をしかめるようなものです。
まず知ってるところはすぐ読み飛ばします。
鉛筆で何か思いついたことを書き込んだりも以前はしていましたし、本当に大事なことはしますが、基本思いついたらそれを頭で巡らせて、落ち着いたらまた読書に戻ります、鉛筆なんて持ちません。気になる箇所はドッグイヤーで、後からマーキングします。
何か気になったり疲れたらすぐスマホに手を伸ばします。気になることはすぐ調べます。煩悩丸出しです。今も本を読んでてこのブログのネタを思いついて読書中断中です。
本を読むとき、立派すぎる決心を持ってあたって、跳ね返されることも幸せかもしれません。
ですが、読書はもっとリラックスしてやったほうがうまくいくのでは、と思います。難しい本を一から百まで、一度で理解できる人はなかなかいないと思います。「読書百篇自ずから通ず」と言いますが、何度も読み返して少しずつ理解していくのも楽しい読書だと思います。
読書の原則は著者との対話、会話、おはなし。肩肘張らずにお互い楽しみましょう。
鳥がクリスマスホーリーの実を食べてた

たまげた。
鳥たちがクリスマスホーリーの実を食べ尽くしていた。
それは食べてくれたらいいのだが、実は、この木の実は10月くらいにはなっていた。
でも、鳥たちはその時は食べなかった。
それから寒いからお出かけしたのかは知らないが、冬の間も全く食べる気配がなかった。
それで、この数日、鳥たちの声が朝聞こえるようになったのが数週間前だったのだが、それからすごい勢いで食べ出した。朝から鳥たち5羽から10羽くらい来て、窓を開けると逃げるのだが、他はずっとパクパクやっている。
今が1番うまいのかもしれない。
なぜかと言うと少しずつ実が枯れてきたからだ。
腐る直前が1番おいしい的な(ちなみに私は納豆は賞味期限切れて1週間経つくらいから食べ始める。今のところ大丈夫。だっておいしいから)。
鳥たちは実がこの時期が1番うまいというのを、本能で、あるいは直感で知っているのかもしれない。
それで思い出されるのはファーブルのことだ。ファーブルと言えばどの小学校の図書館にも置いてあるファーブル昆虫記の執筆者で、昆虫学の第一人者である。
ファーブルはハチ、特にアラメジガバチを通してその本能を解説している。
このハチは毒針を用いて獲物の筋肉に刺激を送る大元の神経中枢を刺す。まさに「最も高名な解剖学者もうらやむような巧妙さ」だと、ファーブルは感嘆した。その正確無比な動きは、どんな腕のいい解剖学者でも真似できないだろう。
ファーブルは「獲物についての正確な解剖学的知識が、ハチの針を導いている」(昆虫記第2巻)と記している。獲物を殺さずにその運動能力を奪う腕の良さ。その見事な麻酔技術は、進化して得られたものではなく、まさに本能によって備わったものだ。
ファーブルはハチは生まれながらの麻酔の達人であり、「本能は、獲得されたものではなく備わったものである」と言っている。
また、ファーブルは昆虫には理性がないと言っている。進化は理性によってなされるが、そうではなく、本能が昆虫の形を決め、本能が道具を使わせていると言う。
進化によってある時ハチが針を刺す技術を獲得したのではなく、本能としてその能力は備わっていたという。
この話を思い出した。
この鳥たちもある時この時期の実がおいしいことを発見したのではなく、本能としてそれを認識する能力が備わっているんじゃないかと。
じゃなかったら、見目麗しいクリスマスホーリーの実をずっと食べずに待ってるなんてできないはずだから。あるいはこの時期に食べることも計算ずくで移動していたとか?
一回クリスマスホーリーの実、食べてみようかしら。
マタイによる福音書5章を訳してみた
山上の説教と言われる箇所を、CEVから個人的に訳してみました。
聖書協会共同訳は、どちらかといえばKing James versionのような格調高い訳に準拠していて、正確で素晴らしい訳だと思うのですが、真意が分かりづらいところがあると思います。そうやって言葉を尋ねて理解していった歴史もあると思いますが。
大方の聖書を読む方は、真意を掴む前に聖書を閉じてしまうかもしれません。
そこで、英語の聖書で最も簡単なContemporary English versionから訳してみました。
正直に言うと義務教育レベルの英語力があれば誰でも読むことができる(多少単語は調べるかもしれませんが)ので、全然難しいことはしていません。
ちなみに、KJVの聖書はイタリアに新婚旅行に行ったときに本屋でゲットしました。
お値段15ユーロ95セント。
5:3~
3神は、神にのみ信頼する人々を祝福される。
その人たちは神の王国につながっている。
4神は、悲しんでいる人々を祝福される。
その人たちはなぐさめを見出すだろう!
5神は、謙虚な人々を祝福される。
地はその人たちのものである。
6神は、飲んだり食べたりすること以上に神に従おうとしている人々を祝福される。
その人たちが望んでいるものが与えられるだろう!
7神は、慈悲深い人々を祝福される。
その人たちは慈悲深く扱われる!
8神は、心がきれいな人々を祝福される。
その人たちは神を見るだろう!
9神は、平和を作る人々を祝福される。
その人たちは神の子どもたちと呼ばれるだろう!
10神は、正しいことをしているためにひどく扱われている人たちを祝福される。
その人たちは神の王国につながっている。
本当にそのまま、学研の英語聖書で単語を調べて訳してみました。もっと上手に訳す人はたくさんいるであろう出来ですが、一つの参考になれば幸いです。
初期キリスト教信条史 読み終えた
概要
初期のキリスト教の使徒たちが制定したとされる使徒信条やニカイア信条、古ローマ信条、コンスタンティノポリス信条などについて、その中身を詳しく詳しく分析している本です。本当に細かいところまで、例えば使徒信条の一文をもってどのように解釈され、どのように変異したかも詳しく書かれています。
なぜ読んだか?
神学の授業で初期信条について取り上げられていて、とても面白かったので読んでみました。
気になった一文
「東方教会の5世紀にヒッポリュトスが書いた主の遺訓には、悪魔の放棄『サタン、私はあなたとの関係を、あなたを崇敬すること、あなたの誇示、あなたの欲望、そしてあなたの働きを断つ』と志願者への油の塗布が示されている」
「アンブロシウスの『秘蹟について』は、志願者は洗礼槽に入り、まず悪魔とその働きの、続いてその世界と喜びの放棄を宣言した。」
悪魔の放棄…では悪魔っていったいどんな存在なのか?これも初期教会の指導者の本に載っているはず。
感想
とても専門的な内容で、今の自分だとお腹いっぱいになりました。知っていることの確認ができたのは良かったです。

