神学校ライフまとめブログ

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りっぱすぎる決心は、きっと三日坊主になるから byドラえもん

読書のための大事な話。

 

学校で指定された本、あるいは興味を持って読んでみようと思った本が、絶版していることにも多々出くわします。

そうすると新品ではなく中古、古書を探し求めることになります。

今の世の中は本当に便利になって、直接古本屋に行かなくとも、ネット書店で在庫を検索できます。どれだけの時間がそれによって節約されるでしょう。直接の店舗に行く時間、交通費…それになかったとしたら別の店舗へ向かわなくてはならない。

しかし古本は古本ですから人の手に渡ったもの。中には経年劣化が見られるものや状態に難ありの本もないわけではありません。

そして、その中にはその本を持っていた方の書き込みが見られることもままあります。

書き込みは読んだ証で、私はこう言うのを読むのが好きで、本を読むときにその人の価値観とも対話している気持ちになって、興味深く読んだりします。大抵自分の価値観とは全く違うので、共感するというよりどういう読み方をしているか、どのようにこの本を読もうとしているかに注目します。

 

ただ、そんな書き込みの入った本を多々巡る中で、少し悲しい法則も見出しました。

それは、表題の通り「立派に読もうとした本は、途中で読み進められなくなってしまう」ことが多いということです。

もしくは、気合の入った書き込みは、それだけその本が難解、決して容易ではないことを表しているのかもしれません。

本の中で、熱心な書き込みを見つけ出すも、序盤で途絶えてしまったケースが多いのです。

最近で言うとバーバラ・ミントの「考える技術・書く技術」で顕著だったのですが、この本を以前持っていた方は、最初の方は傍線が引いてあったり、思いついたことを書き留めていたようですが、50ページもするとそこから何も書き込まれていないのです。

他の本でも、序盤の50ページから100ページくらいは熱心な書き込みが見られるものの、その後は空白というケースが多々ありました。

しかし、大抵の本はハイライトは中盤から最後にかけてであり、序盤にピークを持ってくるのはもったいない。

 

 

なぜ、こんなことになっているのかと思いを巡らすと、

りっぱすぎる決心は、きっと三日坊主になるから

に行きついたのです。

読書一般に見られると思いますが、立派な決心を持って本を読む方が多いのだと思います。

ですが、それは途中で途絶えてしまう。

それはなぜか。

読書は一方通行の修行ではなく、著者との対話だからだと思います。

本は、「私の目的」のために書かれたケースはなかなかなく、著者は「あるテーマ」に沿って本を書いています。それゆえ、読書というのは肩肘張って気合を入れてやるというより、もっとリラックスして、人とお茶しながら雑談するような気持ちでやるくらいがちょうどいいのではないかと思います(ちなみに今ソファに横になって布団かけて書いてます)。

自慢ではありませんが、私はその過去の本の所持者が挫折したかもしれない本を多々読破してきました。しかしその読書法は、その立派な決心を持った読書家から見れば眉をしかめるようなものです。

まず知ってるところはすぐ読み飛ばします。

鉛筆で何か思いついたことを書き込んだりも以前はしていましたし、本当に大事なことはしますが、基本思いついたらそれを頭で巡らせて、落ち着いたらまた読書に戻ります、鉛筆なんて持ちません。気になる箇所はドッグイヤーで、後からマーキングします。

何か気になったり疲れたらすぐスマホに手を伸ばします。気になることはすぐ調べます。煩悩丸出しです。今も本を読んでてこのブログのネタを思いついて読書中断中です。

本を読むとき、立派すぎる決心を持ってあたって、跳ね返されることも幸せかもしれません。

ですが、読書はもっとリラックスしてやったほうがうまくいくのでは、と思います。難しい本を一から百まで、一度で理解できる人はなかなかいないと思います。「読書百篇自ずから通ず」と言いますが、何度も読み返して少しずつ理解していくのも楽しい読書だと思います。

読書の原則は著者との対話、会話、おはなし。肩肘張らずにお互い楽しみましょう。