えーすいません。長らく更新せず。
実は四国巡りの記事を完璧にまとめようとしてて、なかなか進まず記事のネタばかり溜めていました。
いい体験をしたから完璧にまとめないと、というのは足枷になりますね。とても完璧になんてできないので、自分の等身大で記事を作らせてもらいます。
さて、神学についていろいろな方、牧師・教授・過去の神学者の著書からも助言をいただきました。
牧師って、密かに自身の神学を勉強していて、それを仕事に反映させているそうです。
それで、そうはいっても神学って膨大な範囲があるので、全てを深く学ぶことはできません。それはどんな学問でも一緒だと思います。
それで、いわゆる「推し」を作るそうです。
アイドル界隈では推しって言葉が常套句で、◯担とか言ったりするそうです。それは自分がそのアイドルのことが「好き」だから推しになるのだと思います。
神学においても、カール・バルトという方の著書を(実はプレゼントされたので)読んだのですが、福音主義神学は、自由があるっていうことをおっしゃっていたんですね。
それで、いわゆる「推し」なのですが、自分が話を聞いた限り、牧師さんたちは自分が興味を持ったことを深めていったり、好きな神学者がいたりするそうです。これも推しですね。。元祖オタ活?(あ、今ヤバいこと言っちゃった)
例えば、神学の膨大な範囲から、受肉論とか、聖霊論とか、自分が深めたいことを深める自由があるそうです。あるいはもっと細分化して、だれだれのなになに論に対して、とか、すごい深めていく世界みたいです。もちろんそうは言ってもカルヴァンのキリスト教綱要だとか必読の本はあると思いますが、私自身神学って学ぶことが決まっていると思っていたので(おそらくそれは神学校にいるうちにするとは思いますが)、もっと学ぶ自由があるのかな?と思いました。
神学ってとてもとても難しい学問のイメージがあるのですが、実際のところは、学ぶ方の好きだとか、興味も肯定されてるようなところがあるのかなと思いました。自分も、自分の好きを大事にしていたら、いつか自分が本当に深めたい神学に出会うかもしれません。
神様は、神学を学ぶ人がどんなことを好きになるのかも、もしかしたら楽しんで見ているのかもしれません。
アイドル界隈の推しってのも、実はそこに自由がある、自分が誰を好きになってもよく、どのように応援してもいいという自由があるからこそ、ハマる人が多いのかもしれないですね。